昭和46年09月10日 朝の御理解
御神訓 一、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」
神の教えを分からして貰い、聞かして貰い、生活の総てが、教えに基づいた生活が出来る、そこに自づと、真の道はついて来る。ところが教えを聞いても、真の道を聞いても、その教えをもし行じないとするなら、生活の中に信心者としての生活がいとなまれていないとするならば、これは私は哀れだと思いますね、例えばこれは教祖の神様が、まあ御感じになられた。
天地の親神様が御感じになられた、信心がないものばかりは、仕方がないなと、信心のないもの、勿論ここで、神の教えを教えて下さるのは、天地の理、天地の道理、又は天地のご恩徳、そう言う事も知らずに居る人間氏子の身の上の事を、見られたり感じられたりなさったところではないでしょうか。どうか信心しておかげを受けて呉れよ、というのが、神の願いであるけれども、信心をしようともしない、教えを頂こうともしない、真の道という事やらは、全然問題にもしない様な生き方。
それをなんと哀れな事であろうかと、神様の目からご覧になり、教祖様これは私共が見ましてもそうですね、信心の無い人の姿を見てからもう気の毒で気の毒でたまらん。成る程お金も有る健康でもある、それなのにいつも心の状態というものは、不平不足でいっぱぃである、人間関係はいつも乱れておると言う様な、又はそれはどういう意味に於いても、おかげを受けておられるにしてもです、真の道を知らぬ人の哀れさが盲蛇に怖じず、と言う事がありますが、そげな行き方をしよったんじゃ必ず不幸になる。
もう目先が見えておる、そういうものを信心の無い人達の上に感じる事が有ります、信心の無い人達が本当に気の毒だなと、だから、こういう有り難い信心を頂き、教えを頂き、真の道を、段々辿らせて頂いておる、私と致しましてはです、こういう素晴らしい行き方が有るのだと、本当に皆さんに、戸別訪問どもして、お話して廻りたい様な気がするですけれども。
さあそれを聞かなかったら仕方無いでしょう、いや聞かぬどころか、かえって反発して来るですからね、ですから、もう本当にこれは、哀れさを感じますね、これは人間の、ところがです、そうした信心の無い人達がね、又は信心はあってもです、信心をしている人の姿、熱心に信心を頂いている人達の姿を見て、哀れさを感じておる様な事も無いではなかろうと思いますね。
信心する者ばっかりは哀れな奴じゃと、この朝早うから起きて、さあ雨が降っても風が吹いても、まあ皆さんの場合でいうならば、合楽合楽というて通いよんなさるが、よほどあそこは、難儀な事があるじゃろうと、言う様な見方をしとる。いわゆる、神様にお参りをするという日、と言う事は何か難儀な事があっておるという人ばっかりの様に見ておる、これは、いつでしたか、椛目時代でしたけれども、吉井の熊谷さん、久大線で草野の駅から、椛目まで歩いて見えられる。
余りにも毎日毎日、お参りになるものですからね、草野の町の人達がですね、まあ評判すると云うか、まあ、あの人は吉井の方げなが、毎日毎日、朝早ようからこの道を通ってあのお婆さん、参りござるが、余程なんか、まあ、医者から見放された、とか、いろいろな難儀な問題があるか、どうか体があんなさるとじゃろう、というて聞いた人がある。いいえおかげを頂いて、おかげで体はこげん元気でぴんぴんですし。
子供達はそれぞれにおかげを頂いておりますし、別にお金に不自由する事もありませんし、まあいうならお家は、ああいう大きなお家に住まわれて、いうならば何一つ不自由の無い身で、毎日毎日こげん早うから、当時の椛目に参りよんなさるのが、不思議に見えた、不思議ではなくて哀れに見えた。信心というものはね、信心というものは、信心の無い人から見たら、だから気の毒に見える様な事も私はあろうと思う。
毎日毎日がこういうおかげを頂いて居りますから、本当に御礼参拝させて貰わねばおられない、参拝させて頂いて御教えを頂いて、それがもう楽しみで、それが喜びであると言う様な事を話してもです、ほうというだけである、信心者というか、信心している者を、信心のない人から見たら、哀れに見えると言う様な事はなかろうか。今日私が御神前で頂きましたのは風鈴ですね、夏に下げます風鈴です風鈴を頂いて、風も何も吹きよらんもんだから、チリンともいよらんところを頂いた。
私は信心さして頂くもの、教えて頂くもの、真の道を辿らせて頂くもの、只信心しよりますと、風鈴を持っておるだけでは、何もならんです。風が吹けば吹く様な、吹けばそれこそ耳を傾けるごとある、鈴虫の啼く音の様な、音が出て参りますよね、風鈴は質の良い風鈴なんか、私はよい質の良い風鈴を頂いとりますが、それは何ともいえない良い音色がでます。けれども、どんな内容の良い音色を発するだけの金の質というですね、そういう質を持っておりましても、風が吹かなかったら音が出らない。
ほんなデレンと下がっとるだけの、だがそのデレンと下がっとるだけの姿を、私は今日はここん所を頂いてですね、そういう信心者の姿を見る時に、信心の無い人から見ると信心者は哀れという風に、又は、気の毒だという風に見えるのじゃないでしょうかね。白地に赤く日の丸染めて、ああ美しい日本の旗は、又はああ勇ましい日本の旗、白地に赤くその美しさとか勇ましくというものが、信心者の姿の中に若し無かったら、それは哀れと見えるでしょう、気の毒に見えるでしょう。
信心を頂いとってもそれは、成る程気の毒です。そうでしょうが此処では、それこそ人の言葉の通り、限り無く美しくなりましょう、と限り無く美しくなりましょうやというて、信心の稽古をしておる訳です、いや口ばっかりで、美しぅならなかったらどうでしょう、美しぅなる事に精進しなかったら、すぐ汚い事ばかり考えておる。ずるい事ばっかり考えておる、浅ましい事ばつかり心の中に持っておるとしたら、そういう例えば、信者の姿に触れたときに。
信心しょったっちゃ、それこそ、ごじよ根性ばっかり強うなったっちゃ、という風に悪口をいわれる事になるのではないでしょうかね、同時に私は、今日は思うのに、いわゆる信心者の勇ましさです。どうして、こげん風が吹くじゃろうかではなくて、その風のおかげで、日章旗がはためいている、その例えば日章旗を上げても、でれっと下がっとるなら、矢張り格好が良いものじゃない、少し風があってから、こう、「ハタハタ」とその旗が動いとる姿というものが、非常に勇ましく見えるものです。
そこにはっきりそういう美しさとか、勇ましさとかいうものがですね、生活の全体の中に滲み出て来る程しの信心を、頂かなかったらです、信心は頂いておっても、矢張り哀れです。もうこの睡かつに、この寒いのに、この暑いのに、ご苦労なこっていと言う事になるものです、成る程それは、お参りをすればね、金光様のご信念は、いつも申します様に、おかげは受けますからね。
ですから、おかげを受けよるけん、睡かばってん参りよる、おかげを受けるからこの暑さにでも、寒さにでも、矢張り参るんだ、程度のお参りであったからです。これは信心者が笑われても低級視されても、仕方がないですね、それはまあ、参れば参るがとあるけん位の信心なら、ところが、実際の事、参りゃ参るだけがとあるです、おかげは、だからその程度でもし、信心が終わるとするならばですね、信心する者の、私は信心の無い人達から見て、信者は哀れに思えるのじゃないかと思う。
只信心者はですね、只信心しているという自己満足だけで、信心が続けられておるとするならば、限り無く自分の心の上にも、自分で自分の心を拝みたい程しの、有り難さというものがです、心の中に感じられる。信心は皆さんそれが有り難いとでしょうが、私はそう思う、教えを頂いて思い方が変わって来る、改まる磨く事に精進する、自分ながら自分の変わって行く姿がもう楽しうてたまらん、そこに今まで難儀と見ておった、その難儀な事柄がですらが有り難いものになって来る。
やれ痛や今みかげをという心になれよとね、普通から見れば、やれ痛やと言う事であっても、今それをおかげである、みかげであると頂けるような心、それが勇ましいのです。そこのところが出来ずして、何十年朝参りを続けたところで、信心頂いておるというたところで、私は、信心してない人達のところから見たら、気の毒なこっちゃと。信心する人は、お金も要ろうが、この早うから、あげんして参りよんなさるが、と、言わば軽視される、馬鹿にされる将しくあわれですね。
もしそれが信心であるとするとするなら、おかげも頂く、昨日の御理解ではないけれど、徳と利が、一緒に自分の心の中に頂いていくところの有り難さ、それが其の侭、徳である、光である、その有り難いものが家の中を明るくする、社会を明るくする、自分の職場を明るくする、そういう心におかげは伴うて来る。徳と利が一緒に頂ける様なという、朝の御理解でしたよね、そういうおかげの頂いていけれる道を、私は真の道と思うです、だから、真の道を歩くから、真のおかげが伴うて来る。
信心の喜びというものは、自分で喜ぼうとして頂けるものじゃない、神様が下さらなければ、許されなければ、喜びは感ぜられない、おかげにおいても然り、信心するものは、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つときには、礼を言う様な心持ちになれよ、御理解三十一節に有りますね。そういう感謝の生活、喜びの生活、参りよるときだけが信心者じゃない、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つときには、御礼を言う様な心の状態、そういう生活なのである。
そういう生活が有り難いのである、尊いのである、それが出来ないならば、私はね信心を頂いて、いわゆる、教えを頂いておる値打ちはないと思う、勿論それで、真の道を辿ることも、勿論出来ません、一生金光様の信心を頂き続けたというても、それは、おかげを頂いたというだけに過ぎない、これは、まことに哀れな信心というより他にない。信心させて頂いて、本当に有り難いのは、おかげを受けるから、有り難いのであるけれども、こういう時にあって、例えば風鈴じゃないですけど。
風が吹いて、風が吹くからこそ、耳を傾けたい程しの良い音が、心から発せられる。心から湧いて来る、信心の有り難いのは、私はそれだと思うですけどね、だからその言うならば人から、哀れにも思われ、気の毒にも思われたりするのはです、どう言う事をいうかというと、信心しよったっちゃ、こげな事が起こるならというて、信心を疎かにする、ところが本当の教えを頂き、真の道を歩かせて頂いとるならね、信心させて頂いとりますおかげで、どのような場合が有っても、それが有り難く受けていけれる。
と言う事は、なんと有り難いことだろうかと言う事になって来る、風鈴の音色に聞き惚れているような姿、そういう信心生活が真の道を知ったもの、日々教えを頂いておる者の生活の姿でなければならんと思うのであります。そういう例えば、自分で自分の心が拝めれるというか、自分の心の中に、風鈴の音色にも似た、音色を聞き取る事の出来る、そういう人の姿、そういう生活にはです。
これは信心のない人、分らない人でも信心ちゃできわせん、自分は信心はせんけれども、信心というものは有り難い、尊いものだなぁと相手にそういう姿を与える事ができると思うですね。神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。信心をしておっても教えを頂こうともしない、真の道とは真の道とはと追及する心も無いなら、これは信心の無いものよりも、ひょっとすると哀れかも知れません知っておっても行じない。
どうでしょうかお互いこうして、日々信心の稽古させて頂いておるが、自分の心の中に、そういう風鈴の音にも似たような、有り難いものを感じていけれる、生活が出来ているでしょうか、もし出来ていないとするならば、いわゆる勇ましさが、未だ足らんのだと思わなければなりません、信心はもう、勇みの心でするのです、皆さんが教会が近づいたら、もし歩いて来とるなら、教会のこうやって、家が少し見え出して来たら、何かこう走りださにゃ居られないような心躍動する心、神様に向かう心が躍動しておる。
一言でも、聞き漏らしてはならないという、教えに対する姿勢、態度そういう勇ましさが、信心に欠けましたら、信心をドライになるとですね、割り切った考え方で、信心を頂く、もうそこには、おかげは受けても、生き生きとした、信心の喜びなどは、もう微塵も無くなってしまうでしょう。そして本気で私共が限り無く美しくならして頂こうとする意欲が、喪失しておる、教えを頂かんごとなった時には、もうすでにね、限り無く、美しくなるという事が、かえって、損するような思い方するのです。
この程度で良かろうという事は決してありません、もう限り無く美しくならして頂こうという意欲、そういう心の状態が薄くなる、信心に勇ましさが欠ける、どんなに素晴らしい、それは白地に赤く染めぬいた、日章旗であっても美しさも、勇ましさもそこから感じとる事が出来ない。そういう勇ましさとか信心に、潔いものが要るといわれる、勇ましさが要る、しかも限り無く美しくなっていこうとする願い、これは私たちは本気で改まらなきゃいかんですねと、もう改まっていくより他はないですよと。
例えば夫婦のものが、話し合える日々でなければいかん、でもこれは夫婦だけじゃない、親子の場合でもそうです、問題に接して行くたびに、もう美しくさえなれば、問題が全然問題でないことが、問題になって来る、だからそういう場合に、もうこれは私たちが、美しくなっていく意外ないですよ、私たちが、改まっていく以外ないですよと、言う様な話合いが、家庭の中でも出来るような信心生活を頂きたい。
信心して、どうしてこげな事が、言う様なものが有っては、それこそ信心者がむしろ哀れに見える時は、そう言う時じゃなかろうかと思う、又信心者が尊く見える、有り難く思える時には、風が吹けば吹くほど、例えば良い音色が出て来るような心の状態の時、あれ勇ましやとか、あれ美しやとか、という心の状態がです、自分の心の中に感じられる時、信心を頂いておる値打ちがそこに有ると思う。真の道を辿らして貰っておる者の姿、教えを頂いておる者の、生活の状態というものはね。
只今、申して参りましたような、内容、にならして頂く時にです、信心頂いておる事の幸いにひたらして頂けるおかげの時であると思います。参りゃおかげを頂けるけんという、成る程、おかげ頂きます、けれども、頂くからというての、信心の時代は、ヒョットすると信心のないものが哀れといわれるけれども、信心者こそ、哀れだと、世間で言う様な事。そういう雰囲気を自分が持っているような事で有っては、折角の尊い信心を頂いておる値打ちがなくなりますからね。
どうぞ。